第380回定期演奏会 指揮者 松本宗利音さんインタビュー
来る7月3日(木)東京オペラシティ コンサートホールにて開催する本公演の指揮者で、元東京シティ・フィル指揮研究員の松本宗利音さんにお話しを伺いました。

©金子 力
―音楽との出会いや名前の由来について教えてください
両親が音楽好きで、とくに父がクラシック好きでして。名付けは、父が指揮者のカール・シューリヒト*のファンだったので、そこから付けたそうです。シューリヒトって名前をつけてしまうような、ちょっと変わった親なんですけど(笑)
。生まれた時からカール・シューリヒトのレコードをよく父が聴いていたので、身近にごく当たり前のように音楽というものがありました。楽器は4歳からヴァイオリンを習い始めました。
*カール・シューリヒト(1880~1967):ドイツの世界的指揮者・作曲家。

8歳、レッスンを受けるマエストロ
―幼い頃から、ご両親から将来は音楽家になりなさいと言われていたのですか?
音楽をやってくれたらいいなと考えていたとは思います。好きだった指揮者から名前を付けたということは、気持ちの75%くらいはそうだったと思いますが、実際に父や母から「あなたは将来、音楽家になるんだから」というような教育を受けたことは一切ないんです。思い返してみても、実際に音楽家になりなさいと言われたこともないし、自分の好きなようにさせてもらいました。音楽が好きだから息子にも音楽を習わせて、くらいの気持ちはあったかもしれないですが、まさか指揮者に、という気持ちは全然なかったと思います。ヴァイオリン自体も本格的に習うのは小学5年生くらいの時にやめて、もうとにかく遊びましたね。あとは剣道を習いに行ったりとか…。剣道では筋がいいと褒められていい気になって。母も音楽の次に興味を持ってくれるものを探してくれたんだと思います。
―小学校から高校までの学生時代について教えてください
小学5年生になって、友達とクラスが離れてしまったこともあったと思うのですが、小学5・6年生から中学校卒業までとにかく遊んでいたんです。でも、当時遊びまくった経験が今の自分の中でのベースになっている気がしますね。
今でもその時の気持ちを思い出すのですが、学校の音楽の授業は苦労したというか面白くなかったですね。とくに記憶に残っているのは中学時代ですね。たとえばヴァイオリンをやっていると「音程が」とか、「このスラーが」とか、「モーツァルトが」とか、そういう話になる。反対に、学校では「合唱を歌う」「リコーダーを吹く」というような、“みんなで同じことをする”授業が多くて、そのギャップで楽しく思えなかったんですね。「人と同じことをしないといけない」というのが一番辛かったですね。

12歳、名付け親カール・シューリヒト夫人と
中学3年生の時の担任が音楽の先生だったのですが、音楽高校へ行くと伝えたらすごく協力してくださって。その時にはもう高校は指揮科に行こうと決めていて、合唱コンクールの指揮者を決める時に「じゃあ宗利音やれよ!」みたいな流れになって、指揮をすることになったんです。実際にやってみたらみんな必死に歌ってくれて、すごく良い結果が残せたんです。あれは悪い経験じゃなかったなと思いますね。
その合唱コンクールの前、中学2年生の時に今の日本センチュリー交響楽団の野外コンサートでの指揮者体験コーナーで手を挙げたら当たってしまって。曲はモーツァルトの《フィガロの結婚》序曲で、最初の部分を振ったら大歓声を受けたんです。冒頭の強弱が最初小さく始まって、それから大きくなるのですが、僕はその曲を知っていたので、f(フォルテ=強弱記号で「大きく」を意味する)で大きく振ったらオーケストラの音がドワーッ!!ってなって。あれは気持ちよかったですね。センチュリー・ユースオーケストラには中学2年生のときに入団して、初代メンバーとして中学3年生までの1年間在籍しました。
それまでは、ヴァイオリンも人前で弾くのは恥ずかしいという気持ちもあるし、中学生の同級生に、たとえばブルッフのコンチェルトを聴かせたところで「分からないよね」みたいな気持ちになって。自分が小さいときからやっていることって何の役に立つのかなって。今思うと、自分は音楽の精神性みたいなものが好きで、それを人前に出すということに対して自信を持つようになったのは、その合唱コンクールと指揮者体験コーナーの経験だと思いますね。“音楽”って人の心を動かしたりとか、拍手を受けられるものなんだなって身をもって感じましたね。この2つの経験によって人前で音楽をやるということがなんかいいなって。音楽の道に進もうというより、「それしかない」のかなって心の中で思っていましたね。
あとは自分にとっては京都堀川音楽高校の存在は大きかったですね。
名前もこうですし、常日頃から自分の名前がこうだからこう、っていうふうに行動しているわけでは一切ないのですが、堀川音楽高校の指揮科に吸い込まれていったというか。堀川音楽高校では指揮を藏野雅彦先生に師事していました。

京都堀川音楽高校オーケストラを指揮
―ヴァイオリン以外に、ほかの楽器や音楽の勉強はどのように学ばれましたか?
楽器はほかにピアノと、ソルフェージュを小学2年生から白石先生に習っていました。白石先生は音楽のことだけでなく、いろんなことを教えてくれましたね。すごく面白い人で、今日は散歩に行きましょうとか、山に2人で登って大きい松ぼっくりを探してとか。もちろん部屋で過ごすこともありました。ピアノはあまり興味を持てなかったのですが、楽典とかソルフェージュはもう楽しくて。なんていうかな・・ただ音楽だけを教える先生ではなくて、「人生と音楽は一緒になっている」ということを教えてくれる先生でした。まるで親のようにお世話になりましたね。先生の家に毎日行っていた時期もありましたし、他の生徒がレッスンをしている時にそばでずっと僕は楽典を解いていたりして。いつも僕がいるので、レッスンを受けている子も「あ、しゅうくん」みたいな感じで接してくれました。
ヴァイオリンは曽我部先生に師事していたのですが、曽我部先生も白石先生同様、本当に親身になってよくしてくださいました。堀川音楽高校の受験ではヴァイオリンの実技試験もあったので、先生のところに伺って小学5年生の時にやめたヴァイオリンのレッスンをしていただいて、その後また大学受験の時にもお世話になりましたし、僕が指揮者になってからはコンサートを聴きに来てくださいました。自分の幼少期はむちゃくちゃでしたが、先生方をはじめ、周りの人たちに育てられたんだなとあらためて実感しています。
―東京藝術大学に進学・卒業されてから弊団の指揮研究員になるまでの経緯を教えてください
2016年3月に大学を卒業して、2017年4月に東京シティ・フィルの指揮研究員になるまでの1年間はいわゆるプー太郎でした。でも、自分にとっては一番楽しかった時代でしたね。大学を卒業するタイミングで「どうしよう」っていうときに、ここでもやっぱり人に助けられました。指揮者の尾高忠明さんが日本オーケストラ連盟の元専務理事の吉井實行さんを紹介してくださって。吉井さんから「宗利音、これからどうするの?」って訊かれて、僕が「どうしたらいいかなと思っているんです」と答えたら、「それだったらオーケストラのボーヤ(ステージ)のアルバイトでもしたら?勉強になるよ」と。それでちょうどその時、読売日本交響楽団(以後、読響)でバイトが必要だからと紹介してくださいました。
バイトでは楽器のことはもちろん、「リハーサルってどうやるんだろう?」とか、音楽の創り方をステージスタッフとして現場で1から学びました。シティ・フィルにも何回か行ったことがあるんですよ。
―指揮研究員になったきっかけと指揮研究員時代に印象的に残っている出来事を教えてください
ステージスタッフ同士は業界内で繋がっているので、当時シティ・フィルのアルバイトをしていた人から、「指揮研究員は旅仕事で沖縄に行けるんですよ。受けてくださいよ。」と言われて、「沖縄に行けるのっ!?」と思って受けたのがきっかけです。
全部が思い出なので1つに絞ることは難しいのですが、人がどう考えるかとか、どういうふうにしたらみんながいい方向を向いていけるかということをかなり勉強できたなと思いますね。
たとえば高関先生が振る時と飯守先生が振る時とでは全然違うものが出来上がる。オーケストラから自分の音楽を引き出すということが一番大事なんだなと、それ以来、現場ではそれをずっと心がけています。高関先生には團伊玖磨のオペラ《夕鶴》のロシア公演にも連れていっていただくなど、指揮研究員の2年間でものすごくいろいろな経験をさせていただいて。飯守先生からはオケの良いところを引き出すような指揮を学ばせていただきました。二人の先生からそういうことを現場で見ながら勉強して、すごく濃い2年間だったなぁと思いますね。
読響とシティ・フィルでのアルバイト時代に衝撃だった指揮者は、読響の名誉指揮者だったゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(2018年没)と、ユーリ・テミルカーノフ(2023年没)というロシアの指揮者と、飯守泰次郎(2023年没)先生ですね。テミルカーノフが振った時は高関先生もリハーサルを見にいらしていました。オケから音が出てくるというか、引き出すというか、質感とか。指揮者は合わせるだけじゃないんだなっていう、そういうことをすごく学んだ時期でしたね。こういう指揮者になりたいと思いましたね。

2018年1月に開催した第312回定期演奏会(ブラームス交響曲全曲演奏シリーズⅠ)のゲネプロ時の桂冠名誉指揮者 飯守泰次郎と松本マエストロ
©金子 力
―指揮研究員を卒業してからこれまで2回、客演指揮者として指揮されて、今回は3回目の共演となりますが、今の率直なお気持ちをお聞かせください
シティ・フィルの指揮研究員を卒業してから、これまでの指揮研究員の中で自主公演を振っているのは僕だけだと思うので、やっぱり最初に客演としてオファーをいただいた2020年のときは、そんな思い切ったことをしてくれていいのかな?というか、ご褒美のような気持ちで。高関先生もよくOKしてくださったなと。これまで2回客演したティアラこうとう定期演奏会はシティ・フィルにとって大事な演奏会だと思うのですが、今回の東京オペラシティでの定期演奏会というのはキャパも大きいですし、特別な意味合いがあると思っています。ひと言で言うのは難しいのですが、一番は「感謝」です。オケには感謝がすごくあります。団員さんにも事務局の方々にも感謝がありますし、それに応えないといけないと思っています。
―本公演のプログラミング(選曲)について教えてください
事務局から「いま一番やりたい曲を挙げてください」と言われた時に、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」と、今回のメイン曲のブラームスの交響曲第2番が頭に浮かびました。でもシティ・フィルで「悲愴」はよく取り上げられているので、ブラームスの交響曲第2番に決めました。
でも、今回の演奏曲の中で1曲目のドヴォルザークの交響詩「英雄の歌」が実は一番やりたかった曲で、この作品をベースに今回のプログラミングを決めているんです。
作品名にある「英雄」とは誰のことか?という話があって、これはドヴォルザーク自身を意味しているという説があるのですが、この曲はドヴォルザークにとって恩人だったブラームスが亡くなったすぐ後に作曲を始めて、1898年に行われたブラームスの追悼演奏会で初演されていて、その時のメイン曲がこのブラームスの交響曲第2番だったんです。昔のいくつかの参考文献には、英雄=ドヴォルザーク自身のことを曲にしたと書かれているんですが、そうではないんです。自分なりに楽譜を見ていると、最初の音が♭シとラの音なのですが、Brahmsの頭文字がb(=♭シ)で、次のrは音階にないのでその次のa(=ラ)となっているんです。しかも調性もB-durなので、絶対にそうなんです。曲の途中には葬送の部分もあったり、ブラームスが作曲した子守歌という作品からの引用だろうなと思われる音型も出てきたり、これはもう明らかにブラームスを意識して書かれているんですよね。ドヴォルザーク自身もあまりこの曲に対して言及していないのですが、やはりブラームスの追悼演奏会で演奏されたということと、何より指揮(演奏)してみると分かるのですが、そもそも謙虚で控えめな性格だったと言われているドヴォルザークの人間性から考えても、自分自身のことを作品にすることはまずないと思いますし、ブラームスに感謝の気持ちがあったと思うんです。それは、僕が高関先生に対して思う感謝とか、飯守先生に思う感謝にも近いものがあるのかもしれないのですが、結果的にその初演の時のプログラムである「英雄の歌」とブラームス交響曲第2番が今回のプログラムと同じになったということなんです。
ブラームスの交響曲第2番が自分の中で候補に上がってきたときに、「ああ、そういえばシティ・フィルで飯守先生のリハーサルを最後に見たのはこの曲だったかなぁ」と思って、あくまで個人的にはですが、この演奏会は高関先生と飯守先生への感謝の想いを持って演奏することになりそうだなと思っています。僕にとってシティ・フィルは一番の古巣なので。
―ソリストでサクソフォン奏者の上野耕平さんとの共演について
上野さんとは今回が初めての共演です。同じ大学の1個上の先輩で、学年も違うので一度もお話しをしたことはないのですが、実は車の中でいつも上野さんがパーソナリティをされているラジオを聴かせていただいています。演奏する《アルトサクソフォン協奏曲》の作曲者、逢坂裕さんも同じ大学の先輩で、学校でよくお見かけした記憶がありますね。上野さんと演奏するミヨーの《スカラムーシュ》と逢坂裕さんの《アルトサクソフォン協奏曲》は今回初めて取り組むのですが、全体のプログラミングとしては、ドヴォルザークの《英雄の歌》とブラームスの《交響曲第2番》の渋い2曲の間に、フランス作品と邦人作品が入ってすごく面白い感じになったと思っています。共演させていただくのがとても楽しみです。
―これから指揮者として、音楽家としてどういうふうになっていきたいか、今後のキャリアや目標を教えてください
自分が感動したマエストロたちのような指揮者になりたいという気持ちはありますね。そうなるには結果を積み重ねていくしかないのかなと思っています。自分が思う最高の演奏というのは自分の心の中に色濃く残っているので、そういうものを目指して指揮をしているのですが、これからも自分の“理想の音楽”と“理想の指揮者”の両方を目指してやるしかないと思っています。
―最後にお客様へメッセージをお願いします!
まず、ドヴォルザークがブラームスに向けて書かれた追悼の歌である《英雄の歌》を、皆さんに生で聴いてもらいたいという想いが一番にあります。現在はあまり演奏機会がなく、ドヴォルザークに関する参考文献でもほとんど解説されていない作品なのですが、本当に良い曲で、僕はこの作品が彼の最高傑作だと思っています。この作品がブラームスの追悼演奏会で初演されたときに、一緒に演奏された今回のメイン曲であるブラームスの交響曲第2番をセットにして演奏するというのは、プログラミングを考えていく中で結果的にそうなったのですが、それを今回皆さんにセットで味わって聴いていただきたい。そして自分がシティ・フィルの指揮研究員を卒業してからこれまでティアラこうとう定期演奏会に2回呼んでいただいて、そしてついに今回、東京オペラシティの定期演奏会に呼んでいただけたということで、シティ・フィルには特別な想いがあります。そして何より常任指揮者である高関先生と、亡き飯守先生への感謝の気持ちを込めながら演奏したいと思っています。ぜひ会場にお越しください!
確かな構成力と瑞々しい感性で頭角を現している期待の新星。2025年4月大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者に就任。
2019年から2022年まで札幌交響楽団指揮者として北海道内はもちろん各地で共演を重ねた他、2020年に指揮研究員を務めていた東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団ティアラこうとう定期演奏会に、2021年に読売日本交響楽団名曲シリーズ、大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会にデビューし堂々たる演奏を披露。山形交響楽団、仙台フィル、群馬交響楽団、東京交響楽団、新日本フィル、東京フィル、名古屋フィル、京都市交響楽団、関西フィル、大阪交響楽団、日本センチュリー交響楽団、九州交響楽団などからも次々に招かれ共演を重ね、2025年8月にNHK交響楽団、2026年1月に神奈川フィル定期演奏会にもデビューする。
1993年大阪府豊中市出身。相愛音楽教室、センチュリー・ユースオーケストラに所属し、音楽、特にヴァイオリンに親しみながら幼少期を過ごす。京都堀川音楽高校を経て東京藝術大学音楽学部指揮科卒業時に最優秀賞であるアカンサス賞を受賞。指揮を尾高忠明、藏野雅彦、高関健、田中良和、ヴァイオリンを澤和樹、曽我部千恵子の各氏に師事。藝大在学中にはダグラス・ボストック、パーヴォ・ヤルヴィ両氏のマスタークラスを受講。
「宗利音(しゅうりひと)」の名付け親は、20世紀の世界的指揮者カール・シューリヒトの夫人である。
第380回定期演奏会
2025年7月3日[木]19:00開演(18:15開演)東京オペラシティ コンサートホール
出演
指揮:松本 宗利音
サクソフォン:上野 耕平
曲目
ドヴォルザーク:交響詩「英雄の歌」作品111
ミヨー:スカラムーシュ 作品165
逢坂裕:アルトサクソフォン協奏曲(上野耕平 委嘱作品)
ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73
主催:一般社団法人東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
共催:公益財団法人東京オペラシティ文化財団
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術等総合支援事業(公演創造活動)) |独立行政法人日本芸術文化振興会